未開人の研究日誌

東京大学で教育の研究をしています。2023年4月現在M1です。

最近のニュースについて(前)

11月中に出したかった記事ですが、遅くなってしまいました。

教育学部志望ということなので、たまにはいろいろな報道に対する自分の意見でも書いてみますか。
今年だけでもかなりのニュースがあった気がしますが、主なものは
①少年革命家ゆたぼん
②「ケーキが切れない非行少年たち」について
③英語民間テストと大学入試共通テストについて
④神戸の小学校での体罰問題について
⑤変形労働時間制にいついて
奨学金の問題について
これらについて自由に書いていきたいと思います。99人の壁の東大生vs小学生の収録を見てきたので思ったことも途中に挟んでいきます。

今回は主にschoolingとlearningをテーマに、次回は家庭の経済力をテーマにしていきます。また次回に高大接続改革の話もしたいと思います。

・schoolingとlearningの違いとは
東大で「世界開発報告」を読む授業を取っているのですが、その2018年度版のテーマが教育でした。冒頭の一文が"Schooling is not the same as learning."という衝撃的な文でした。この報告書では発展途上国について書かれていて、学校に通うことはできても様々な要因で教育が受けられていない、もしくは成果が上がっていないという現状が書かれています。しかし今年はこのschoolingとlearningの違いが日本でも大きく取り立たされた年ではないのかと考えられます。これは歴史的転換点と言えるかもしれません。
まずゆたぼんの取り組みはschoolingなしでlearningを実現しようとするものでした。完全な後出しになりますが、僕は比較的肯定派です。僕が小学5年生の時にロボットになるなという考えなど全く持っていませんでした。むしろ人間を一つの指標で捉え優劣をつけることしかできなかったと思います。仮に当時の自分が「ロボットなんかになるな」と言われたら、どんな反応を示していたでしょうか。恐らくはそんな意見は無視していたと思いますが、今になって思うとそのように子供に教え込むことができるのはすごいことなのではないか、と思います。これに対し世間はschoolingとlearningを区別できていなかったためかなりの批判があったものと思います。とはいえ手放しで肯定することはできません。場所がどこであろうともlearningができていなければなりません。しかし彼の主張によるとどうやら従来とは異なる学び方が求められているようです。learningとは何かを再考せねばなりません。
それに対し「ケーキが切れない非行少年達」で取り上げられていたのはschoolingが行われていたにも関わらずlearningができていなかった例です。本の詳細については控えますが、自分の身の丈(ここでは経済的な意味ではなく学力的あるいは知的発達の意味合い)に合った教育が必要とのことです。こう考えると盲信的にただ学校に行かせる、ということが必ずしも最善な選択ではないということがわかります。
神戸の小学校で行われた教師間イジメ(というより暴行)がありましたが、加害者からの教師から教わっていた児童も心の傷や担任が変わったことなどによる混乱でlearningはできていない、と考えられます。

・schoolingは必要か
より良いschoolingのためには学校に行かせる以外の選択肢も必要だ、ということです。「世界開発報告」で扱った発展途上国では学校以外に学びの基盤が乏しいことが多く(子供は労働させられる、そもそも村には文字すらないなど)学校というのはlearningを実現できる唯一の場所です。(勿論状況は急速に改善されつつある。)それに対し日本では児童労働は行われておらず、学ぶための材料は十分にあります。とはいうものの学校には学校の良さがあります。特に日本の学校は社会性を身につけることに重点を置いています。また、共働き世帯の増加の中、子供を家で教育できない家庭もかなり存在します。ゆたぼん家のように親が子供の教育方針を決めて実行まで行うケースは稀でしょう。
ただし99人の壁に出てきた小学生達は学校には行きながら(もしかしたら行っていないのかも。そこは知らない。)自らの興味を持ったことに対する深い学びを進めていました。勿論小学生をいろいろなイベントに出演させたりサザエさんを1日12時間見せたりするのは親のlearningに対する積極的な方針が必要ですが、東大生に対して対等に勝負していた姿は立派なものだと思いました。そして何よりも大きなことだと思ったのは、小学生側のチームワークです。小学生はそれまでに何度か番組への出演経験はありましたが、5人が共演したのは初めてでした。しかし収録が進むにつれチームワークのようなものが芽生えてきていたのを感じました。これには司会の佐藤次郎氏の功績による部分も大きいですが個人的にはこれは非常に重要なことだと考えています。ただの観覧客なのに上から目線になってしまいそうですが、志を同じにする選ばれしもの同士の友情は他とは違う特別なものなのだとは思います。結果より大切なものを小学生が受け取ってくれたらなあ、という思いで見ていました。補足ですが、このような例を持ち上げて、学校の勉強をしながら自分の好きな勉強もできる、と考える人もいますが、個人個人でスペックが違うので他人と比べることは意味がないでしょう。

・法的な観点
法的に考えてみると、日本国憲法第26条に親が子供に教育を受けさせる権利がある、とありますが、これはあくまでlearningを行わせる義務であり、schoolingを行わせる義務ではありません。学校への就学を定めているのは学校基本法ですが、これは就学の義務であり登校させる義務ではありません。(就学の義務が必要なのは学校に行きたい時に行けるようにしなければならないため)

・個人的な意見
保護者が子供に教育を受けさせる義務があることには異議はありません。ただし、学校に行かせることが子供にとってベストな選択肢ではなく、かつ自分で子供の教育の責任を終える場合はホームスクーリングという選択肢も十分に考えられます。基本的に学校に行かせるということは保護者が子供の教育に関する責任を学校あるいは教員に委任していると考えることができます。一方学校側は、子供が通ってくるようにするためにいろいろな点を改善する努力目標があると考えられます。保護者には「子供により良い教育を受けさせる」努力目標を与え、学校はそれが学校であるように改革を進める、というのがあるべき姿なのではないでしょうか。

・大学入試との関連
僕の意見はかなり教育における多様性を重視したものになっています。大学において多様性がどれほど重要なのかわかりませんが、特に私立大学の指定校推薦やAO入試で低学力の人間を入れるのも多様性を構成する一つの要素なので積極的に反対はしません。と言ったら冗談に聞こえそうですが、こんなものを発見してしまいまして… https://www.waseda.jp/inst/diversity/assets/uploads/2017/01/2016_report_11_kamio-1.pdf
また茂木健一郎氏は上記の観点からすべての入試はAO入試であるべきと主張していますが、これはまた別の問題を孕んでいます。第一に一般入試を突破した学生も多様性を構成する一要素であるべきだ、ということ。第二に選抜が存在する以上その時点までにある程度の結果を残さなければならず、それではそこまで多様な学力観には至らないかと思います。
また、最近よく言われる「平等性」が多様性とどう関連(あるいは対立)するかについてはこの記事には書ききらない話(というよりは個人的に専門的に理解を深めたい話)なので割愛します。ただし1例として英語の4技能試験を取り上げます。政府はこれを民間委託する方針です。その理由として大規模な試験で「書く・話す」能力を問うのは困難であるから、ということを挙げていますが、多様な試験があることによって例えばビジネスで活躍したい人はTOEIC(撤退しましたが)、留学したい人はTOEFLというように自分の目的にあった英語能力を身につけることができるわけです。(ただし、GTECははっきり言ってレベルが低いのでそういう次元には達しない)一方平等性の問題が出てきます。これを解決する方法の一つとしてTOEFLを利用した人が何人、TEAPを利用した人が何人、と言った具合に割り当てる方法があります。ただしこれにも欠点がありそうな気はしますが…
個人的に一番疑問に思うことはそのような能力を大学入試の場で問うことですが、これについては次回。